昨年10月初旬娘が1年間の予定でオーストラリアに発ってから早足掛け5か月目に
なってしまった。
今流行りらしいworking holidayとやら言うプログラムで、1年間アルバイトとして
仕事が出来るビザがおりるので生活費を自分で稼ぎながら旅行をし、出会い、経験
そして願わくば英語に慣れる、という目的が主旨らしい。
とは言え若い人達の事、一番の目的は退屈な今の日常から離れて未知の世界で楽しい
経験をという事にあり、小遣いが稼げればさらに儲けものという結構甘い考えも
なくもない。まあ、甘い夢だけでは現地に着いてから現実にたたかれるのでそれも
是正されるか、あるいは自分の甘さゆえに行き詰まり失意と共に帰ってくるかは人
それぞれなのだろう。
かく言う我が娘は今年の始め美術学校の一年目に嫌気がさし以前から希望だった
こういったプログラムを見つけて来た。親としてはせっかく高校が終わりその上の
学校に行ったのを中断して1年も何の経歴にもならない半分遊びの滞在など当然の
ごとく反対したのだが、結局押し切られた。と言うより嫌々ながらの学校を親の
ごり押しだけで続けさせ、就職し、仕事に追われ、ある程度の年齢になった
時に後悔するなら今のうちの寄り道は無駄ではないとこちらが考えを変えたと
いうのが正確な言い方かもしれない。
最初は現地のホームステイ等を捜したが、1年で100万円以上相当がかかる
という事でああこれは無理と思っていた所、別な機関でその1半額以下ほどの
ものを見つけてきた。そんなに安いのでは怪しげなものではないか?と半信半疑
で説明会に行った所なかなかしっかりした機関で現地各地に関連の事務所があり、
仕事の斡旋からその他諸々のアドバイスをしてくれるとの事。なぜそんなに安い
のか?(とは言ってもやはりかなり大変な額なのだが)ホームステイがない為
費用は往復の航空券、ビザの申請、旅行保険、現地着から4日間の宿の確保以外
は自分で仕事を捜し住居を見つけて「自活」をするせいだとの事。
もちろんほぼ3ヶ月程の当面の生活費は渡す必要はあったが、これなら可能
という事で、踏み切った。
もちろんいくつかのハプニングはあり得ると思っていたが、出発から乗継便が
遅れドバイ経由が「例の」マレーシア航空の乗継でクアラルンプール経由、
予定より5〜6時間遅れてなんとか最初の地Perthにたどり着いたものの、
チェックイン荷物が着かない。紛失届けをしろ、ああのこうのとメールで
やりとりをしたが、最初の宿に着いてから3日後にやっと荷が届くまで
着のみ着のまま、でもまあ一応は安心となった。
4日間ほど与えられた宿に居たあと、郊外のとあるご婦人の家にただで宿泊する
代わりに庭仕事やら諸々を手伝うという事で1週間ほど滞在。そうこうするうち
にインターネットで宿と農園の仕事が見つかったとかでMelbourneに移動との
事、がこれがとんだ事で450オーストラリアドルを前払いで払い現地に着くと
約束の宿も仕事もない、旅行者相手の詐欺だったのである。この詐欺師は前科が
あり娘達3人プラス2人のフランスからの若者も含め5人がひっかかった。
急きょオーガナイズした機関の現地事務所に連絡、とりあえず多少離れた地に
あるボートハウスに宿を見つけてもらい仕事も斡旋してくれた。そのボートは
中々居心地がよく若者も沢山でよかったのだがさて朝5時起きでオレンジの収穫
の仕事が始まると....巨大な籠にオレンジを満載すると27オーストラリア
ドルという事なのだがひと籠に約2600個程入る大きなものをいっぱいにする事が
出来ない。結局12時間ほど働いて20ドル前後にしかならないとの事、宿と
食事を払うと足がでてしまう、これではとんでもないと一緒に行った3人のうち
娘ともう一人は他に移動することになった。一人はそれでも相棒を見つけ籠を3つ満載
出来るとの事で残る事になった。
Melbourne から Brisbaneに移動、1週間ほど市内のユースホステルに宿泊、出発
から1か月以上経っていたがまだ無収入。出発前に簡単に見つかると思っていた
通りにはならない、が、なんとかせねばとそこから近いRussels Islandに移動、
またまた一人暮らしの年輩のご婦人の家にお世話になり家事その他と引き換えに
無料で宿泊。居心地は良かったのだが兎に角仕事は捜さねばならない、そうこう
するうちに1週間が過ぎたある日、2人の娘の目の前でそのご婦人が発作を起こし
救急車で病院に担ぎ込まれる事になった。
家主の居ない家にそれでも近所の援助もあり1週間弱は寝泊まりしたのだが、
あまりにもずうずうしいのではと気が気でない娘達は掃除、洗濯その他全てを
こまごまとした後移動中に仲良くなった若者2人の口利きでまたまた別な農園
に移動、今度はキャラバンに寝泊まりし、プチトマトと玉ねぎの収穫とあいなった。
やっと、やっと、オレンジ畑の倍近くの収入となりキャラバンは最初のボート
よりうんと宿泊代が安い事もあって多少は採算がとれる状態にこぎつけた。
そこで1週間ちょっと働いているうちに農園の持ち主から声がかかり、またまた
1時間ほどの距離にある農園に移動、今度は各自部屋も与えられ、週休が2日
になるとかで喜んでいたが、今度は深夜の2時起床という過酷なもの、でもまあ
それは本人達が続行するかしないかは決める事になるのだろう。
家ではシャワーを浴びるのにほぼ1時間を費やしていたのが、そこでは4分当たり
1ドルという事でなんでも超スピードでシャワーをするテクニックを身に着けた
そうである。後は爪を伸ばし色々なマニュキアのおしゃれをしていたのが、野菜の
農薬で手があれてそれどころではない。食べ物もあれはダメこれは嫌とは言って
おられず、予算を切り詰める為にパスタがほとんどとか、が途中で風邪を引いて
食事の大切さを痛感、自分から進んで見向きもしなかった野菜を食べる様になった。
まあ色々家では味わえない体験をしてはいる様である。
話が前後するが、到着後1週間ほどして仲間の一人の子のお兄さんが交通事故で
亡くなるという不幸があり、その子は1週間ほどベルギーに戻ってまだ出直し
という出来事もあった。
農薬で手があれたり、捻挫をしたり、相棒は手にかなり大変な怪我をして
手術をしほぼ1か月仕事ができなかったりとまあいろいろあったがここでは
なんとか多少の蓄えはできたとかで来週でひと段落、知り合ったゲイの男の子
と3人でほぼひと月のroad tripに出かけスキューバーダイビングやらスカイ
ダイビングをするとか、まあこうなったら心配などしてもこちらは手も足も
出ない。88日の労働日数を確保すると滞在ビザが更新でき2年目もいられる
との事で帰ってくるつもりはなさそうである。
親離れは結構容易いが、子離れをせねばならないこちらの方が手がかかる
のかもしれない。